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平野小みちさんは令和4年に飯舘村に移住し、鍼灸(しんきゅう)師として村の内外で活動しながら、薬用植物の栽培などにも取り組むアクティブな女性。生まれた土地は北海道ですが、小学校から高校までを飯舘村で暮らした「Uターン組」です。ただ、村に戻るまでには長い旅路がありました。
オホーツク海に面する北海道常呂町と佐呂間町で幼少期を過ごした平野さん。お父さんは酪農や畜産の現場で牛や豚などの健康を守る獣医でした。そんな平野さんが両親と一緒に飯舘村へ移り住んだのは小学校1年生のころ。福島市の高校を卒業するまで飯舘で暮らし、お母さんの実家に近い北海道帯広市の帯広畜産大学へ進学しました。生まれ育った北の大地への郷愁に加え、お父さんの影響で畜産や農業にかかわる仕事をしたかったそうです。
一方で、子ども時代からの「海外へ出たい」という夢が膨らみ、大学卒業後は中国に留学。北京の大学で中国医学を学びました。世界的に東洋医学が「新しい医療」として注目され始めたことも理由です。ただ、日本でも使える資格を取りたいと予定を繰り上げて帰国。札幌の専門学校で学んではり師・きゅう師の国家免許を取得し、東京の鍼灸院で働きました。
二度目の「日本脱出」はアフリカ大陸の東に浮かぶインド洋の島国セーシェルへ。北京の大学で親しくなったセーシェル人の女性に誘われ、そこで働くことになりました。セーシェルにはアフリカ系だけでなくヨーロッパ系、アラブ系、中国系などさまざまなルーツの住民がおり、その多様性が「面白かった」と振り返ります。
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セーシェルの新聞に紹介された当時の記事
「一カ所にとどまるのが向かないみたい」という平野さん。次に選んだ舞台は国際航路をクルーズする豪華客船に乗り込み、船内のスパで乗客に鍼灸施術を行う仕事でした。3週間かけて太平洋を横断する船にも乗ったとか。そこでも、さまざまな出会いがありました。
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海の上で働く当時の小みちさん
東日本大震災と福島第1原発の事故が起きたのは、平野さんが東京で働いていた時期。ご両親は飯舘村から福島市へ避難していましたが、家庭の事情が重なり、平野さんも船の仕事を打ち切って福島へ。その後、新型コロナウイルスの感染が広がったこともあり「海外はもういいか」と区切りを付けたそうです。
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福島では、知人のつてでクリニックに勤めながら、自分でも部屋を借りて開業していましたが、その知人の提案で「薬膳茶」(東洋医学の考え方に基づき生薬などをブレンドした健康茶)作りを試みることになりました。そこで思い出したのが飯舘村に残した実家で作っていたクコの実。深谷地区の災害公営住宅に入居し、同級生のお父さんでもある畜産農家の山田猛史さんの協力でコブシを、個人的にクコ、サンザシ、ナツメ、ハマナスなど薬用植物の栽培を始めました。
鍼灸師の仕事でも遠距離の出張が多い平野さんですが、奥会津の只見町には月1回のペースで通っています。漢方薬の原料としてシャクヤクを栽培する生産者グループに協力し、収穫や除草などの作業を手伝っているそうです。
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とにかく行動範囲が広く活動的な平野さんですが、約30年を経て戻った「第2の故郷」飯舘村には、すっかり溶け込んでいます。阿武隈高地の涼しさや、近所の人たちが何かと世話を焼いてくれる人のつながりに魅力を感じているとのこと。「コミュニティーづくりや生活の基盤ができれば、そんなに不便でもないと思う。今の私にとっては住みやすい場所ですね」。弾けるような笑顔で、そう語ってくれました。
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